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時よ止まれなんて言葉は、きっとこの島のために生まれてきた【タイ・ピピ島 その3】

by 古性 のち
「明日、もし暇だったら僕のお店においで。君の泊まっているところから、歩いてたったの5分だよ。仕事が14時には終わるから、散歩でもしよう」
わたしが少し悩んでからOKマークを右手で作って返事をすると、ココがひらひらと手を振りながら微笑んだ。
時よ止まれなんて言葉は、きっとこの島のために生まれてきた【タイ・ピピ島 その2】

翌日、わたしは14時より少しだけ早めにお店に着いた。
「良く来たね、Nozomi!ここに座って、待っててもらっていい?」
わたしに気付いたココが勢いよく立ち上がると、自分の座っていた赤い椅子を指差した。


無造作に伸びたヒゲと髪を揺らしながら、上裸で歩いていく男性。
水着姿でココナッツジュースを頬張るカップル。
到着したばかりなのか、地図とスマホを交互に見ながら、にらめっこしている女性。

お昼をすぎて、今日最後の船が港に入ってきたばかりのこの時間は、通行人がとても多い。
そんな中、わたしの座っている椅子は店に背をむけるように並んでいたので、通りを行く人たちとたびたび目があってしまうのだ。
「ハーイ」と声をかけてくれた女性にひらひらと手を降って答えると、焼けちゃうよ!と真っ黒に日焼けした自分の腕と太陽を交互に指差しながら笑った。

「明日船を出すから、あと2人くらいお客さんが欲しくてね。君がここに座ってくれてたら、他のツーリストも入りやすいだろう?」とココがウィンクする。
なるほどそういうことだったのか。でもこの席、めっちゃ暑いよと文句を言うと、ぺろりと舌を出しながら、そそくさとまたどこかへ行ってしまった。

*  *  *
15分ほど経ってわたしの暑さがピークを迎えたころ、「そろそろ行こうか」と、戻ってきたココがよく冷えた水を呑気な調子で差し出してくれた。
結局あのあとお客さんは見つからなかったが、ずっと座っていたおかげでわたしの体からはほぼすべての水分が吹き出して散っていた。
ゴクゴク一気に飲み干すと、水は体の隅々まで染み渡っていって、脳みそがしびれるような感覚になる。
容赦なく照り付ける日差しが、本当にきびしい。
9月の昼過ぎだというのに40度くらいは軽くありそうで、つまりピピ島はまだ、夏真っ盛りなんだ。

* * *
お店を出ると、ココがこっちこっち、と言うのでおとなしく隣を小走りに歩く。
「わたしの足、短いからもっとゆっくり歩いてよ!」
と何度もお願いしながら袖をグイグイ引っ張っていると、すれ違う島のひとたちに「いいねえ。デートかい?」とからかわれる。そんなんじゃない!散歩だよ!と返してみたけれど、わたしの乏しい英語のスキルで、それがきちんと伝わっているかどうかは、定かではない。

「ねえ、どこまでいくの?」
息を切らしながらたずねるわたしに

「これから秘密の場所にいくよ」
とだけ答えると、そのまままたぐんぐん歩いていくので、置いて行かれないようにとわたしも黙って必死に足を速めた。

ココのショップから町の端までは、歩いて20分ほど。町の端っこに到着する頃には、観光客もすっかり散り散りになっていて、その時間はわたしとココ以外、ほとんど見当たらなかった。目の前は細い道がぐねぐね続いていて、左には上り坂、右には海が広がっている。

突然、ココが履いていたサンダルを脱ぎだして目の前の林に入っていくので、ふいをつかれてぎょっとした。
「え・・・何やってるの?」
「え?何って何がだい?僕はいつもこの道は、靴を脱いでいくんだ。なぜだかわかる?」
わたしが怪訝そうに首を横に降ると、OKと言いながら
「ピピ島の地面は柔らかくてね、実はとっても歩きやすいんだよ。気持ちいいから、Nozomiも、Let's try !(試してみて)」
とニッコリ笑った。
ちらりと前の林に目をやると、ゴツゴツした岩と急な坂道、さらにはうっそうと茂った鮮やかな草たちが目にはいる。
地面が柔らかそうには、到底見えなかった。
むしろこのじめじめした雰囲気に、豊かな緑。見たこともないような虫や動物がいそうな気がする。

それでもココがまた、グングンとわたしの前を進んでいくので、意を決して慌ててサンダルを脱ぐと、両手に抱えて後を追う。
足に、ひやりとした地面の冷たく湿った温度が伝わってきた。

* * *

ー しかしものの10分ほどで、この浅はかな行為にとてもとても後悔することになる。
案の定、わたしの足元には見たこともない虫が縦横無尽に地面を這っているし、ゴツゴツした岩があまりにも痛く、行く手を拒んで全く進めないのだ。
なのにココは忍者のようにこの林を駆けていく。あっという間に見失ってしまった。

「めっちゃ痛いよー!ココー!ちょっとまってよー!」
先にいるはずの彼に必死に呼びかけると、遠くの緑から返ってくる。
「あと少し頑張れば、ご褒美が待ってるよー」
そののんきな声に、わたしは少しムッとする。
ご褒美も何も。この状況自体が地獄のようなんですけど!

兎にも角にも、怒っていてもここを登り切らなければこの状況は変わらない。
わたしはわたしでなぞの意地から、なぜかここまできてサンダルを履きたい気持ちにもならない。
はーっと一息ついて顔をあげると、残りの道を勢いよく登り始めた。

* * *

ココに追いついたのは、それから20分後のことだった。
何度も転んで手も服も泥だらけだし、虫をよけながら石の上を歩いたせいで、足は傷だらけ。
肝心のココはというと、タバコの火をくゆらせながら
「ご機嫌なおさんぽコースだっただろ」と親指を立てて笑う。
一瞬、わたしを置いていったことに怒りがこみ上げてきたけれど、あまりにも屈託ないその笑顔に呆れながら、
「全然。ごきげんな散歩ではなかった!」
とだけ伝えて、わたしは最後の力で大きな岩を登り、ココの横に腰を下ろした。

その瞬間、目の前に広がる景色に、心をわしづかみにされた。

そこには目をみはる程の、どこまでも青い世界が広がっていた。
と、表現していいのかさえも、わからない。
それはわたしの知っているどの「青」にも、まるで当てはまらなかったからだ。

空と海が溶け合っているのに、きちんと境界線が目に飛び込んでくる。
雲の影が海に落ちて、そこにまた新たな青が生まれている。
同じ影のはずなのに、それは他の島によってできたものとはまた、違う青だった。

「秘密の場所って、言ったでしょう?」
ココの言葉で、ハッと現実に引き戻される。

「シャッターは切らないでね。多分、写せないと思うから」

ココが言ったように、それはいくら、何百回とシャッターを切ったところで、てんで何も伝わない気がした。
この刻一刻と変わっていく海の魅力を、一体どうして時間を止めた状態で伝えられるんだろうか。
そんなむずかしいこと、わたしには到底できない。

人間美しい景色をみると、涙が出るらしい。
そんな経験、今までしたことがなかった。

だからこそ、自分の目から溢れ出る涙に、いちばん驚いたのは自分自身だった。

心がシンと静かになる。
ココのことも、旅のことも、自分の町のことも、何もかも忘れて

わたしはただ目の前の景色に、静かに心をあずけた。




古性 のち
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