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わたしの旅が、ただの日常になった日その3【オーストリア・ウィーン】

by 古性 のち

9時になり、教会のドアが開く。我先にとなだれ込む立ち見席の人達の間で、わたしはただぼんやりと突っ立っていた。

受付に立っていた神父らしき人がチケットを差し出し、「入らないのか?どうするんだ?」

とも言いたげな怪訝な顔を向けたところでやっと中へと足を進める。

私が到着するころにはもう立ち見席は満席だったので、後ろの方にそっと滑り込んだ。

100人くらいが入れるような少しちいさめの空間の真ん中には豪華な装飾を施された、金色の棒。

その両脇には聖歌隊だろうか、白い服に身を包み本を抱えた男性たちが静かに並んでいる。

ひとり、金色のマントのようなものを羽織った男性が、何やら耳打ちをしながら、椅子に腰掛けていた。

会場にはさまざまな国の言葉がちいさな声でざわめきを作っている。

わたしの前では同い年くらいの男性が「ここは中もけっこう冷えそうですね。先生、大丈夫ですか」と初老の男性に何やら本を見せていた。

これからの計画を相談しているのか、男性の広げた本・・・ガイドブックには日本語で「オーストリア・ウィーン 地球の歩き方」と大きく書かれている。

開始時間を10分すぎても、なかなかはじまらない。

わたしが体重を右足から左足に移し替えた時に、
トントンっと前の方で何かを地面に叩きつける音がして、それがマントを羽織った男性の持っていた杖の音だと気付いた時には、ちいさなザワザワは聞こえないほどに静かになっていた。

途端、誰もが思わずハッとしてしまうような、太く、力強い歌声が響き渡る。
そこにもうひとり、もうひとりと音が重なり、協会全体に、ワッと強いエネルギーが流れ込んだように思えた。

10人の神父たちがきりりと前だけを見つめ、賛美歌を歌い出した。
ああ。これが本場の歌声か。
とちいさく感動し、私は目をつぶる。

心地よい、朝の静かな空気に、彼らの歌声が重なる。
ビリビリと、だけれどふんわりとまぶたに柔らかな力が入るような、そんな心地よさに包まれる。

体に優しくしみていくような
暖かいような、冷たいような。

そこにいる誰もが口を閉じ、目を閉じ、彼らの歌声を一生懸命に拾おうと、集中していた。

次の瞬間。まるでそれは、天から降りてきたかのように錯覚する、不思議な歌声が響き渡る。

鳥肌がたった。
全身が震えた。
そんなありきたりな言葉しか並べられない、それが悔しくて涙がでてしまうような。

姿は見えず、神父たちの歌声に溶け込んで、包んで、そのままゆっくりと溶かしてしまうような
優しい、美しい歌声。

ウィーン少年合唱団の、歌声だった。

わたしはポカンと口を開けて、その場に固まってしまった。

これは本当に、人間の歌声なんだろうか。

彼らの声が、体の芯の芯まで浸透して、やわらかく溶けていく。

あの時の衝撃を言葉にするのは難しい。だけれど、とにかくわたしは、確かに見たんだ。
目の前がパッと明るくなるような、不思議な現象を。

* * *

「朝のミサが終わると、ウィーン少年合唱団が姿をあらわして、1曲披露してくれることがあるらしい」
先ほど目の前でガイドブックを開いていた男性が、ふんふん、とうなづきながらそんな文章を読み上げていた。
会えたら良いですね、と笑っていたことをぼんやりと思い出しながら、わたしはさきほどの余韻に浸りながら、ミサの終わりを待っていた。

マントを羽織った神父が中央にゆっくり歩いて出ると、ペコリと頭を下げ、ミサの終わりを告げる。

わたしたちも一斉に立ち上がり、目をつぶる。

その瞬間、コツコツと小気味良い足音とともに、15名ほどの少年たちがわたしたちの前に整列した。

そしてあの歌声で、1曲、歌い出したのだ。

周りのざわつきも、何も気にならなかった。

どよめきが起こり、みんなが夢中でシャッターを切る中、わたしは微動だにしなかった。
できなかった、が正しいのかもしれない。

その声を、聴き漏らしてたまるかという思いが込み上げてきて
なにがそんなに悲しいのか、涙があふれた。

私の中の何かが、溶けていく。
それが何なのか、なぜなのかはわからない。

だけれどそれは確実に熱を持ち、ゆっくりと、凍りついた何かを溶かしていった。



古性 のち
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