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さよなら。おだやかな水の都【イタリア・ヴェネチア】

by 古性 のち

「それじゃあ、良い旅を」
彼と硬く握手すると、空港へ向かうバスは軽やかに走り出した。

日がおちかけたヴェネチアの街は、昨日と変わらずに美しくて

なんだかこの街を訪れたのはたった5日前のことなのに、もう長いことここに暮しているような、そんなずうずうしい気持ちになる。

それくらいにこの街は、居心地がよかったからなのかもしれない。

本当に、あのゆったりと過ぎていく優しい日々は、たったの5日間の出来事だったのだろうか。

わたしが去った後も、あの街には今日も水が流れて、陽気なゴンドラ漕ぎたちが歌を歌いながら、スイスイと、わたしを追い越していくのだろう。

そんなことを思うと、無性に切なくなる。
それも、とてもずうずうしいことなのだろうけれど。

重い荷物を横の椅子に座らせて、最後にこの風景をどうにか閉じ込めたくて窓に目を凝らしてみたけれど
行き交う対向車のライトと、窓にうっすらと映り込む自分の顔しか見えない。

諦めてふぅ、と一息ついて、水筒にわずかに残った水をあおる。


空港につくまでのわずかな時間で、ヴェネチアで過ごした日々をじんわり振り返るつもりが

この後に待ち受けている空港泊の不安が、じわじわと押し寄せてきてどうにもこうにも、待ってくれない。

ここヴェネチアからモロッコ・カサブランカ空港までは5時間ほどのフライトだ。

あちらに着く頃にはもう夜の23時を回っているはずだから、お店が開いている保証がない。

さらにはその後、朝7時のフライトが待っている。

わたしが選んだ道は長時間のトランジット。夜中をまたぐ空港泊だった。

「カサブランカの空港は、何もないため空港泊はおすすめできません(更に寒い!)」

と何度も調べたネットの情報には書かれていたし、
実際にロンドンで経験した8時間の空港泊は、寒くて孤独で、
もう2度と空港泊なんかするもんか! とわたしに硬い決意させるには十分すぎる経験だった。

それでもカサブランカ空港に泊まることになったのは、宿泊代と天秤にかけた際に
あまりにも高すぎる空港周辺の宿代を払う勇気がない、不可抗力が生み出した結果だったのだ。

ヴェネチアの空港に到着し、バスの運転手に「グラッツェ(ありがとう)」とお礼を言い、勢いよくバスを飛び出す。

あたりに目をやるとすっかり陽が沈んでいた。
今日もヴェネチアの街は、きっと優しい光に包まれているんだろう。

月がぼんやりと浮かんでいる。

時計に目をやると、フライトまであと2時間ほどだ。
この間にチェックインを済ませて、夜ご飯を食べ、明日の朝ごはんを確保する必要がある。

わたしは足早に空港のチェックインカウンターを確認し、バックパックをぐいっと担ぎ直した。

ヴェネチアにひとりで、しかも女性が、真冬にきていることがさぞかし珍しいのだろう。
物珍しい生物でも見つけたような目で、行き交う人、行き交う人と視線が交差する。

それでもわたしが嫌な気持ちにならないのは
どんなにぶしつけに視線が交わっても、こちらが無愛想な表情をしていても、
必ずニコリと、笑ってくれるからだ、外国人は。

わたしはこの文化がとても好きで、ついつい釣られていつもにっこり笑ってしまう。

そうすると、心も勝手にふんわり優しくなる。

30分ほどカウンターで並んで、チェックインを済ませる。
「モロッコ・マラケシュまで」
と伝えると、カウンターの女性は1度うなずいて、ぺたりとシールを貼ってくれた。

「この荷物はダイレクトでマラケシュまで行く?」
と聞くと、YESとの回答が返ってくる。
もう1度グラッツェ、とお礼を言い、出発ゲートへと急いだ。

フライトまで、あと1時間しかない。

わたしは機内持ち込み用のリュックを背負い直して、一目散に食べ物屋に突っ走って行った。






古性 のち
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