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#51 徐々に染み込んでいく旅の匂いに酔いしれながら【タイ・バンコク】

by 古性 のち

タクシーの中からオレンジ色に染まっていく街を見あげる。途端、心の奥から名前も知らない、何かがこみ上げてきた。この気持ちはなんだろうと考えていると、好きな人を前にしたときの、ドキドキとも、不安とも違う、なんだかぽってりとした塊が、心にのしかかってくるような。あの感覚と似ている。

場所に対して、こんな感情を抱くことがあるなんて。
何度目かのバンコクは、懐かしさとともに、はじめての感覚を運んできてくれた。

飛行機を降りたわたしを、それはそれは長い列が待ち受けていた。遅れた飛行機に、いくつもの便がぶつかったためだろう。
ぐねぐねと伸びる列は、まるで某アトラクションパークのをようになっていて
何重にも折り重なった人の折り目が、はるか先まで続いている。
わたしは、着ていた長袖のヒートテックを限界までたくし上げる。うっすら、腕に汗をかいていた。
興奮と苛立ちがまじった、いろんな人の、いろんな国の言葉が頭の上を飛び交っていく。

30分ほど待っても、パスポートチェックにたどり着くことができない。
後ろを見ると、ピンク色の派手なシャツを着た初老の男性が、わたしの前に器用に、割り込んできた。

1秒でも早くあの街の地面を踏みたい気持ちが、じりじりと体を照りつかせていく。
バンコクに入国できるまで、あと数名というところで、
後ろから「のちさん」と声をかけられる。
振り向くと、見慣れた顔の友人が、ひらひらとこちらに向かって手を降っていた。

「フライトがこんなに遅れるなんてびっくりしたなー。乾杯の時間、間に合うかな」
彼が、少し焦った様子で、ちらりと腕時計に目をやる。
今回わたしがバンコクを訪れたのは、彼の会社が主催するイベントに参加するためだった。
わたしは1度ゲストハウスに荷物をおろす予定があったけれど、向かう方向は一緒だ。
乗り合わせて、プロンポン駅近くまで向かうことにした。

「夕方のバンコクはとにかく道が混むから。多分渋滞してるんだと思う」
わたしが頭の中で考えていたことを、ジリジリと時間を削られる彼がつぶやく。
案の定、呼んだタクシーは、なかなかわたしたちの前に現れてくれなかった。

「何日バンコクに滞在するの?」
ふと彼に尋ねられたのでわたしは
「1日だけなんだ」と素早く答える。
「明日の朝、もうネパールに飛んでしまうから、滞在は10時間くらい」

そうなのだ。わたしのバンコクタイムは、たったの数時間で終わってしまう。
イベントに参加したあとはそのまま、すぐにまた空港へ、向かわなくてはならない。

20分ほど経った頃だろうか。
わたしたちの元に、明らかに運転に不慣れな1台のタクシーが、ふらふらと近づいてきた。

どうやら地図が読めないらしい運転手の、もしかしたらこれはデビュー戦ではないか?
とハラハラしてしまう約40分ほどのドライブを経て、やっと街へと到着した。
ホッとひと息つき、彼に一度、さよならをした。

iPhoneの地図をちらりと確認し、すぐに歩き出した。
スクンビット駅の地下鉄を左に曲がってまっすぐ。
この道は、何度も何度も、歩き続けた道だ。

タクシーの中は涼しかったのに、歩き出すと途端に足先と首筋から、じわじわと汗が流れてくる。
陽はもう沈んでいるのに、湿気を帯びたなまぬるい風は、そんなのおかまいなしにわたしに絡みついてくる。

長い信号を待っていると、目の前の交差点を、バスがドア全開で走り去っていく。
後ろを振り向くと、決して上手とはいえないバイオリンを、若者が、得意げに奏でていた。

タクシーは道を覚えないといけないとか、路上演奏者は上手でなければいけないとか、
バスは、ドアを閉めて運転しなければいけないとか。

勝手にわたしが日常を通じて作った常識たちは、世界基準では途端、意味をなさなくなる。
目をつぶると、見えない何かが優しく溶けていくような気がした。

わたしはふと、足元に目線を落とす。
汚れた赤と白のニューバランスと目があって、「本当は今すぐ脱ぎ捨ててしまいたいんでしょ?」と彼が話しかけてきた。

そう。わたしはすぐにでもこの靴を脱ぎ捨ててしまいたかった。
それは尋常ではない暑さからではなく、多分、これは「冬を我慢していたわたし」が、向こうから仕方なく連れてきてしまった、相棒だったからなのかもしれない。
サンダルをつっかけて、ぺらぺらのワンピースを羽織って、この重い荷物をおろして。
今すぐ走り出したい衝動にかられた。

わたしはいきなりバックパックを道におろし、着ていた服をぎゅっと奥まで詰め込んだ。
靴下を脱いで、靴だけになってみる。
道行くひとたちは、そんなわたしを気にも止めずに、横を歩いていった。


こうやって旅は、些細なキッカケや崩壊を繰り返しながら
「向こう側」のわたしと「こっち側」のわたしを、徐々に遠ざけていくのだ。

きっともっと、日が経つに連れて、旅の匂いが全身に染み付いて、とれなくなっていく。

日本にいたら、「あのひと、一体どうしたの?」
だなんて言われてしまうほどに、もっともっと、濃く、旅の匂いは染み込んでいくのだろう。

そんな乱暴な感情に酔いしれながら、なんとか裸足で歩きたい気持ちを抑えて。
わたしは、裸足にはいたスニーカーで、少し早足で歩き出した。




古性 のち
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