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#52 愛しいタイに、さよならを告げて【バンコクからインドへ】

by 古性 のち

「のぞみ、もう行くの?良い旅をね」
すらりと背の高いエマが、にっこり笑って握手を求める。
夜中2時。他の旅人たちを起こさないように、こっそりとベッドから抜け出したところに、同室のエマが帰ってきた。
8人部屋にしては相当に狭い、薄暗いゲストハウスで、わたしたちはなんとかお互いの距離を保とうと、はじに寄る。

酔っ払っているのか、月明かりに照らされているエマの顔は、ほんのりピンク色をしていて、なんだか可愛かった。
「うん。エマも良い旅をね」
わたしはピンク色の大きなバックパックを背負い直して、彼女に別れを告げる。
このゲストハウスでたまたま隣のベッドになった彼女は、このあと3日間ほど、空港泊を繰り返しながら、メキシコを目指すらしい。

ひとり旅の女性は、本当にたくましい。こんな細い体の、どこにそんなパワーが秘められているのだろうか。

わたしがチェックインしたときには、ありとあらゆるエマの衣類が部屋の床をおおっていて、驚くわたしに「今日全部洗って、明日からメキシコに向かうの。ごめんなさいね」
と、エマはくしゃりと綺麗な顔を歪ませて、恥ずかしそうに笑った。

エマに「どこからきたの?」と聞かれ「日本からだよ」と答えたとき、
これから30日間、きっと毎日「日本人です」が続くのだろうと思うと、うずうずした気持ちと、なんだかちゃきっと背筋が伸びるような思いの、両方がやってきた。
途端、なんだか旅にでたことを、実感する瞬間だった。

「スワンナプームの空港まで」
眠そうなタクシー運転手は、親指を立てて応答してくれた。ガソリンスタンドに寄ってもよいかと聞かれたので、もちろん、と返す。

スワナムンプーム空港までの約30分の道のりを、寝て過ごすのか、おきて過ごすのか、葛藤する。
「激しく眠いけれど、このタイの夜に、目をつぶってもいいのか」
そんな、もったいない精神がわたしの中で沸々と、頭を持ち上げていた。

いつでもこの夜に出会えるけれど、それでも恋しい。真夜中だというのにきらびやかな街からは、賑やかな音楽が鳴り響いている。

その音に耳を澄ましていると、眠気はすぐにやってきて、夢の中へと連れていく。
こんな風にどこまでも無防備にさせられてしまうのは、きっと、あたたかい気候のせいだけではない。
「タイだから」なのだ。

スワナムンプームの空港に到着したのは、4時前。あと2時間後には、飛行機がインド・ムンバイに向かって出発する。
わたしはゲートをくぐるや否や、すぐさまチェックインカウンターを探した。
電子掲示板を素早くチェックすると、100mほど先にあるカウンターで荷物を預けることができるらしい。
遠くから目をこらすと、すでに行列ができていた。

荷物を預け終わり、重い体を引きずりながらラウンジへ向かう。
考えてみれば、2日ほどまともに眠っていない。ご飯を口に運ぶ手前、何度も何度も眠そうになってしまう。
わたしは眠い頭を無理やり起こすように、苦手なコーヒーを流し込んだ。
苦味で口の中が、ざらりとした。

「あと2時間くらいでムンバイに飛ぶよ。インドには多分定刻で到着。また連絡します」
少し考えて、カタカタとひとつ、メッセージを残す。

彼と「ネパールの空港で会おう」という、ものすごくざっくりな約束をしたのは、もう何ヶ月も前のこと。
そんなに広くない空港だ。会えないことはないだろう。
けれど、なんたってここは海外だ。
飛行機が遅れてしまって、何時間も待たせてしまう結果にならないかどうかだけが、気がかりだった。

ちらりとラウンジ内にあった、電子掲示板をもう1度見ると、そろそろ機内への搭乗がはじまる。
わたしは広げていた荷物を集め、コーヒーを一気に喉の奥へと流し込むと、重い腰を持ち上げた。

まずはインドのムンバイへ。そこから飛行機を乗り継いで、ネパールへ。
ムンバイの空港にはたったの数時間の滞在だけれど、それでもわたしの心をざわつかせるには十分すぎる時間だった。

空港だけとはいえあの国に、もう1度足を踏み入れるのか。
わたしはぎゅっと、服の裾を握りしめた。



















古性 のち
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